命が平等とか、嘘でしょう。

小林麻央さんが亡くなった。

 

乳がんとの闘病生活の末の結果だという。

 

私は特段ファンだとか、知り合いだとかでは全くない。

 

ただ、闘病中も必死の思いでブログを更新し、発信していた。

 

その精神力に鳥肌が立つ。

 

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立場柄、注目を集めやすい場所にいた。

 

本人はフリーアナウンサーであり、歌舞伎役者である市川海老蔵さんの妻。

 

嫌でも世間の目は集まる。

 

闘病生活を綴ったブログは、開設から9か月で250万人以上の読者を集めたそうだ。

 

メディアに日常的に触れている人々にとって、その訃報は知らない人は居ないだろう。

 

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人にはそれぞれ「生きる意味」があると考えている。

 

運命ともいうべきか。

 

それは死ぬまでわからないもの。

 

私は死ぬ直前に、「あぁ、俺の生きた意味ってあれだったのか」と気づけるような人生を送りたいと思って過ごしている。

 

小林麻央さんの生きた意味とは何だったのだろうか。

 

他人である私がわかるわけもなく、むしろわかってしまったら失礼な気もするのだが。

 

同じ病気で苦しむ人を勇気づける、乳がんの存在を知らしめる、早期発見を促す。

 

ぱっと考えると、このあたりの影響があったのかと思う。

 

「影響」なんて言葉は命に対して使うべきではないとは思うのだが。

 

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さて、今回私が考えたいのはここだ。

 

「人の命は平等ではない」

 

突き詰めてしまえば、あえて冷酷な言い方をすれば今回の出来事は「1人の人間がこの世を去った」こと。

 

これを大々的に報道し、日本中で多くの人が「ご冥福をお祈り申し上げ」た。

 

例えばこれが隣町のご老人が病気で亡くなったとして、同じような現象になるのだろうか?

 

交通事故で亡くなった子供に対して、これほどまでの人が「ご冥福をお祈り」するだろうか?

 

推測でしかないが、前者に関してはそもそも知られないだろう。

かろうじて後者は「かわいそう」等と言った感想を抱く程度か。

 

「命は平等だ!」という言葉は、私にはどうも理解できない。

 

「時間は平等に過ぎる」ならばわかるのだが。

 

まぁ、この世に万人に平等に与えられるものなんて時間くらいしかないのだが。

 

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私は強欲だ。

 

お金を稼ぎたいし、モテたい。

 

多くの人に認められたいし、称賛されたい。

 

人の役に立ちたい。「君の出す解決案を実行すると不思議と悩みが解消するんだ!」とか言われたい。

 

めちゃくちゃ稼いで日本だけではなく海外にも別荘をもって過ごしたい。

 

出張で週に新幹線で飛び回る社会人になりたい。出張という名目で旅行できそうだし。

 

かと思えば一日中家でだらだらゴロゴロして好きな本を好きなだけ読んで好きなだけゲームしたい。

 

私は命の価値が高い人間になりたい。

 

自分が死んだときには多くの人の記憶に残るような人生をおくりたい。

 

そのためにはどうすればいいんだろう?

 

小さいころからモテるためにはどうすればいいだろうかと考え、取り合えず勉強してきた。

 

特段頭がいいわけではないが、まぁ中の上くらいには居ると信じたい。

 

大学を卒業する直前の今になって思う。

 

お勉強ができるだけではただのバカだ。

 

今自分がすべきことは、朝起きてゲームして昼に家を出て遊ぶことではない。

 

ゴールを探し、決め、道を考え、細分化し、小さなゴールをいくつも設定し、乗り越え、壁を高く設定しなおし、乗り越え続けること。努力し続ける事。

 

既に大幅に遅れているのだから、必死にならないと。

 

後悔しても遅い。後悔しても1円にもならない。

 

時間だけは平等に過ぎるのだから。

 

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取っ散らかった思考をそのまま吐き出した記事になってしまった。

 

これでも少しはルートを決めて余分をそぎ落としているのだが、設計は全くできていない。

 

という罪滅ぼしのために、最後に1つ、ツイートを紹介して終わろうと思う。

 

 

 

 

 

 

受け取り方で人生は何色にもなる。

 

周りに怯えて小さく造るのではなく、自分の好きな色に描こう。

 

だって、人生は一度きりだから。